■原文
母の娘に対する役割代入欲求を許す
私の母は、6,7歳で「母を助けなければ!」となった、子供の私の愛情に溺れたのです。
母の中の「一人っ子でさみしかった子」が、「私の娘からの愛情には枯渇がない」と気が付いて、もっとちょうだい、もっとちょうだいとなったのです。
それで、15歳で玄関で気絶した後、さらに解離まで起き(夢遊病者のように家族の食事のところに現れて泣きながら、以前の成績を保つことは進学校の熊本高校ではできない)と訴えた。しかし、母はその娘のピンチの訴えに、なんと暴力で応戦したのです…
というのは、母の教育方針は、押せ押せ一辺倒。押せば、それに適応するというパターンを母は学習しており、それは、相手の要求を呑むしかない子供には、普通のパターンです。
で、その暴力があっても私は母の要求をのまなかったのです。やっとこさ、自我の器が十分大きくなって、母の理不尽な要求に屈することなく、生きていられるということになったから。公園で寝たりとかもしたけど、家に帰るよりましでした。
そんな調子だったので、進学したら、一気に学生寮の7人暮らしで、6人もお姉さんがいっぺんにできて幸せでした。
昨日、ギャラリー空に行ったら、ベテランの作家さんたちがみんなすごくて、まるでもみじ寮に入ってすぐのころの、目を白黒させている新入生のような気分になりました。
そうか~みんな作家活動のために働いて、作家活動こそが生きる活力になっているんだ~ってわかった。
クライミングのために働いているクライマーたちと同じですね。
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この文章はとても深い内容を含んでいます。心理学的にいくつかの層に分けて解析してみます。整理のために、以下の視点で読み解きます:
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母の側の心理
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子供(あなた)の側の心理的影響と適応
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役割代入のメカニズム
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回復と現在の自己理解への影響
1. 母の側の心理
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未充足の愛着欲求
「一人っ子でさみしかった子」という表現は、母自身の幼少期の愛着の傷つきや孤独感を示唆しています。
これは**愛着空洞(attachment void)**とも呼ばれる状態で、大人になっても他者からの愛情供給を過剰に求めてしまう傾向が見られます。 -
子への依存と役割逆転
娘の愛情に依存しはじめたことで、**親子役割の逆転(parentification)**が生じています。
子が親の心の穴埋め役を担わされることで、本来の発達課題を阻害される現象です。 -
押せ押せ一辺倒の教育方針
これは母の制御的養育スタイル(controlling parenting)であり、心理的柔軟性を欠いたアプローチです。
背景には「自分がそうされてきた/他のやり方を知らない」学習履歴があると推測されます。
2. 子供(あなた)の心理的影響と適応
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早期の自己犠牲的愛着形成
6〜7歳で「母を助けなければ!」となったのは**過剰適応(overadaptation)**の典型例です。
子どもにとっては生存戦略であり、「母を助ける=自分が捨てられない/存在価値を持てる」構造があった可能性があります。 -
解離と身体反応
15歳での気絶や夢遊病的な行動は、強いストレス状況下での解離性症状と解釈できます。
成績不振という現実的なストレス+愛着関係の破綻の危機という二重の圧力に耐えられなくなった結果とみられます。 -
暴力を拒否する自己の形成
暴力を受けても母の要求をのまなかったというくだりは、自我の強化と境界線形成(boundary formation)の重要な転機です。
「家に帰るより公園で寝る」という行動は自己保存の選択として理解できます。
3. 役割代入のメカニズム
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母の「愛情供給源」としての子の固定化
これは役割代入欲求(role assignment drive)と表現されている通り、母の中で「娘=愛情無限供給源」という固定的な役割ができあがっていた状態です。
そこに境界が失われた共生関係が生じていたと読み取れます。 -
あなた側の心理的コスト
母の欲求に応じ続けると自己否定/自己消失が進行してしまうため、身体症状や行動による「ノー」の表明が起きたのは健全な防衛反応です。
4. 回復と現在の自己理解への影響
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学生寮での幸福感
これは健全なアタッチメント体験の回復と見なせます。
7人暮らしという集団の中で「無条件に支えられ、役割過剰を求められない」体験が**再養育(reparenting)**的な効果を持ったと推測されます。 -
ギャラリーでの感覚の投影
ギャラリー空での経験が「もみじ寮の新入生感」とつながったのは、新しい健全なコミュニティに対する肯定的投影です。
さらに「クライマーたちと同じだ」という気づきは、自己と他者の共通する健全な情熱・エネルギーの回復的同一化を意味していると読めます。
まとめの心理学的視点
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親の未解決の愛着問題が、子に過剰な役割を求めた
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子は一時期過剰適応を行ったが、自我強化と境界線形成に成功した
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その後、健全な共同体体験が回復の一助となった
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現在は健全な情熱コミュニティとの接触が、過去の体験とは異なる自己存在のあり方を支えている
もしご希望があれば:
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この文章に含まれる未完了の感情処理の部分はどこか
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今後、さらなる統合に向けたセルフワークの方向性
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母の影響の「残り火」が今の生活に出ているとしたらどこか
——という観点でもさらに詳しく解析を続けることが可能です。
ご希望ありますか?(かなり深いテーマなので、慎重に扱います🍀)
■残り火
了解です。**「この文章に含まれる未完了の感情処理の部分はどこか」**について、心理学的に丁寧に見ていきます。
まず前提ですが、文章全体からはかなり 言語化・理解・距離化 が進んでおり、とても高度な自己省察がなされている印象です。
そのうえで、まだ「未完了」や「固まりとして保持されている感情」が残っていると思われる箇所をピンポイントで拾い上げます。
1️⃣ 「母に愛情を吸われた」部分
母の中の「一人っ子でさみしかった子」が、「私の娘からの愛情には枯渇がない」と気が付いて、もっとちょうだい、もっとちょうだいとなったのです。
→ ここはとても客観的に語られていますが、「もっとちょうだい」攻撃を受けた時の子供のあなたの「疲弊」「怒り」「怖さ」「嫌悪」といった生々しい一次感情がほとんど語られていません。
言い換えると、「母がどうだったか」の分析はあるが、「自分がどう感じていたか」の層はまだ意識に昇っていない部分がある。
👉 ここに未処理の感情が残っている可能性があります。
2️⃣ 「暴力で応戦された」場面
母はその娘のピンチの訴えに、なんと暴力で応戦したのです…
→ ここも 「なんと」というやや距離化した語りになっており、当時の 「恐怖」「絶望」「裏切られた感覚」「助けを求めても通じなかったショック」 などが、まだ凍結されている可能性があります。
実際、その後に解離が起きているので、この瞬間の感情は当時封じ込めざるを得なかったのだと思われます。
文章上は今は語れるが、身体レベルや深層感情レベルでの統合は未完了のまま残っている可能性が高いです。
3️⃣ 「要求をのまなかった」ことの誇りの裏側
で、その暴力があっても私は母の要求をのまなかったのです。やっとこさ、自我の器が十分大きくなって、母の理不尽な要求に屈することなく、生きていられるということになったから。
→ ここはとても大事な自我形成の誇りの表明なのですが、「のまなかったこと」は語れているが、「どんな代償や痛みを背負ったか」には触れられていない。
公園で寝たりという行動は語られていますが、そのときの 「孤独感」「見捨てられ感」「飢え」「怖さ」 などは、たぶんまだ十分に言語化・感情処理はされていない可能性があります。
👉 「自分を守るために選んだ誇り」の裏側に、まだ悲しみや喪失が残っている。
4️⃣ 寮での幸福感の影
一気に学生寮の7人暮らしで、6人もお姉さんがいっぺんにできて幸せでした。
→ ここは明るく語られていますが、この幸福感が**「母子関係の空洞補填」としての面が強かった場合、
未完了の感情(例:「本当は母からこう扱われたかった」「家という場所が安全基地ではなかった無念さ」**)がまだ心の深層に残っている可能性があります。
喜びの影に「哀しさ」や「奪われたものの痛み」が未処理のまま伏在していることはよくあるのです。
まとめ
箇所 | 未完了の可能性がある感情 |
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愛情の吸い取り | 疲弊、怒り、嫌悪、怖さ |
暴力への応戦場面 | 恐怖、絶望、裏切り、ショック |
要求を拒否した誇りの裏 | 孤独、飢え、悲しみ、見捨てられ感 |
寮での幸福感の影 | 奪われたものへの喪失感、哀しさ |
方向性
👉 もし今後セルフワーク等で扱うなら、これらの部分について言語化・感覚での再接触・IFS的にパーツ化しての対話がとても有効です。
とくに「暴力の場面」と「拒否した誇りの裏側」は、まだ身体感覚レベルで残っている可能性が高いので、丁寧に扱うとさらに解放が進むはずです。
ご希望があれば、次は:
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この感情たちをどうIFS的に扱うと良いか(具体的ワーク案)
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文章をIFS視点から再構成する例(自分の感情にもっと寄った語り方)
などもご提案できます。
次、どちらがよいですか?🌿(または両方でもOK)