2025/06/14

セッション1-1/4ーー感情の身体化が課題

 ■出題

「母に愛情を吸われた」部分

母の中の「一人っ子でさみしかった子」が、「私の娘からの愛情には枯渇がない」と気が付いて、もっとちょうだい、もっとちょうだいとなったのです。

→ ここはとても客観的に語られていますが、「もっとちょうだい」攻撃を受けた時の子供のあなたの「疲弊」「怒り」「怖さ」「嫌悪」といった生々しい一次感情がほとんど語られていません。

言い換えると、「母がどうだったか」の分析はあるが、「自分がどう感じていたか」の層はまだ意識に昇っていない部分がある

👉 ここに未処理の感情が残っている可能性があります。

■疲れ

子どもの私はとても疲れていました。いつでも、子供らしく、可愛くいないといけないのです。

ママの前で泣いたら?

ママは困ってしまいます。だから泣けない。

泣きたいときはお布団で静かに一人で泣いていました。だから、ママが個室を私に与えたのは好都合でした。

ひとりで泣くことが可能になった。心の行き場がないので、それで、私は日記をつけるようになりました。日記の動機は

「ママ、違うよ」

でした。母親が、自分の不幸を嘆き、子供たち全員をかわいそう認定するので、それが私は嫌だったのです。だって私の中の覚えている父は暴力男でした。だから、そのような父がいない方が私としては良かったのです。怖かったから。怖くない、普通の環境というだけで子供の私には十分でした。

それより、母がかわいそうかわいそうと、無理やり母のイメージを子供たちにも当てはめそうになるので、それが嫌だった。弟と妹は、私と比べて、父を覚えていないため、母の言う「かわいそうな私たち」をそのまま受け入れているようでした。

私が最も嫌だったのは、かわいそうな人は、そうじゃない人と比べて、何らかの権利がある!という発想でした。

■怒り

子どもに、孤独を埋めてもらっている母には、怒りを感じていました。というのは、母が、孤独なのは、私たちのせいではないし、そもそも、母自体がその時点で孤独とは言えなかったからです。子供3人もいたら、あーひとりの時間が欲しいって方が普通です。

母は、本当は、孤独を手放せなかっただけなのです。

自分で自分をかわいそう認定するために。

その証拠に郷里の菊地では何人も母の友達がいました。優しいお兄さんが菊池渓谷ですき焼きをしてくれた時は本当においしくて感動しました。

私のアウトドア好きはそこから来ています。

■怖さ

母が私の愛情を底なしにすってくることに怖さを感じていました。

だから、とっとと18歳で家を出ましたとも!一生愛情搾取を受け続けるなんて嫌!ってことは、はっきりしていました。

もし、あの時、勇気がなくて出なかったらどうなっていたか?

去年、友人の田畑さんに出会ってわかった。田畑さんは結婚もせず(親の束縛で、できず)、最後まで母親と暮らし看取って、最近やっと一人になった女性です。今は自然農をして暮らして幸せ。

でも、結婚もしておらず、子宮は摘出しており(女性性の否定の痕跡)、彼女の人生は、50台を半ばすぎて訪れたようでした。いや、とても気の毒な人生だと思いました。(実際は、今幸せ)

彼女の暮らしを見て、私の母がしようとしたことはこれだったんだなぁと。つまり、寄生。

一番目の子供にやろうとして失敗(18歳で出て行かれた)、

2番目の子供にやろうとして失敗(死なれた)、

3番目の子供にやろうとして失敗(自殺未遂)、

自分を一生愛情的に支える愛情無限供給機としての子供を作ろうとしたのに(寄生しようとした)、のに、それがかなわなかったというのが、母の人生で、最後は猫を愛情供給の対象としていました。マイケル。

そういう人日本にいっぱいいる。

マイケルを見るたびに、いやー私は猫並みに扱われていたんだなぁと思う。

このことについては、別途、お后の物語としてまとめました。だから、母に関して最も強い感情は、怒りだと思います。このような、人の人生を食い物にする人生を送る女性のことを、鬼子母神ということになっていたんではないでしょうか?

鬼子母神は改心して、子供を衛守護神になったように母にも改心して次の生では子供に依存することなく、養育できる母親になったもらいたい。

■嫌悪

母に対する嫌悪は怒りから来ています。

可愛そう→近づく→無限の愛情要求→拒否する&嫌悪する→相手が傷つく→加害者側に立たされる→罪悪感でコントロール

という流れになっている。

スタートは様々で、能力の欠如、全般的な欲求不満、自己憐憫、などです。

そして、「あなたはなんて愛情ぶかい子供なの」という感動と安心が来ます。(理想化)

安心が来ると、相手は、私には何をしてもいいと思うらしいのです。(境界線の踏み越え)

そして、あれこれと尋ね始めます。「○○はどうしたらいいの?」などなど。

結構、しらんがなー、そんなの自分で考えてよ、って内容が多いです。

たとえば、「このカウンセリングどうしたらいいと思う?」とか…本来は自分で考えるべきことを聞いてくるので、答えに詰まり、自分がよい思う回答を言うわけにも行かないので、回避的な回答になる。「○○に相談してみたら?」みたいな。すると、大体相手は不満そうに黙ってしまう。

そりゃそうだ、相手は私に相談し、私の答え、を知りたいのである。

それは、罠であり、私が答えてしまえば、「だってあなたがこうしなさいって、言ったからしたのよ」と、なる。

つまり、一生その決断について私が責任を取る羽目になる。

そうすると、田畑さん2号が出来上がることになる。

これが起こっている間、相手(母を含む)には、まったく自覚が起きない。

ただ密着したい、愛情と相手が思っている何かを私に与え、その見返りに、そうした相談への回答が返ってくると期待している。

これは、少し年上での友人でも起こる。そういえば、のりちゃんは、そうだった。

親の首つり自殺を目撃したたために、その目撃した事実を共有している男性と結婚した人だったが、彼女の結婚生活は異様で、旦那さんも奥さんも両方が愛人をもって、まったく結婚生活は仮面なのだが、その目撃した事実が絆となっているから、一生別かれることはないという絆だった。この話を聞かされた時、私はカウンセラー役になっていることに愕然とした。

当時私は夫との関係で、失業を強いられて苦労しており、ヨガの先生になろうとしていた。すると、のりちゃんは最初はヨガの資料をあげるよーと言ってきてくれたので、あ、親切なんだと思っていたのだった。でも、その資料を見てびっくり。素人の私でもわかる、低レベルなヨガ教本(ヒカル先生の○○ヨガ的な本)だった。間違っても、聖典ではなかった。

さて、この後、この結婚生活の実態を聞かされることになったんだが…はるばる大阪から山梨まで来てくれたんだよなぁ。二人で温泉に2泊したんだった。

それで、のりちゃんは、わたしというカウンセラーを得て自己承認を得、満足して続きの人生を送ることができるようになった。私はと言えば、夫との関係を何とかするのは自分持ち出し、ヨガの資料も役に立たず、結局、本来はカウンセラーにかかってもらうべき人を無料で話を聞いてやった上、温泉代も自分持ちだったのだった。相手は当然、こちらも楽しんでいると思っているわけなのだ。でも、私の話を聞いたか?っていうと聞いていないと思うし、私は聞いてもらいたいと思って話したことがないと思う。

のりちゃんから、私の心の問題を聞き出そうとする構えが見えると、たぶん、私は反発して話さないと思う。というのは、自分よりもメンタル的に不安定な相手に何かを話せるか?話せないでしょう…

と、つまり、ここでも親の親状態が起こるのである。

さてと、昨日は吉岡さんのことで、まったく私は間違った選択をしているらしいことが分かった。

𠮷岡さんは受賞して○○賞受賞作家になりたかったのである。(その実力は小説にも絵画にもないと思うが…)

もしかしたら、小さい千秋ちゃんも、受賞作家になって、ちやほやされたかったのかもしれない。

母は、裕福な家に生まれ、何も言わなくても、タクシーに乗れば家に連れて帰ってくれたそうである。つまり、ちやほやされて育ったわけだ。

だから、そんな人がいきなり子持ちになり、日本の子育ては、当時は親の責任でしょと突き放すわけで、母からすると、可愛いお人形が欲しかっただけなのに、ギャーギャーと泣く、手の付けられない子供が3人もできては、手いっぱいだったんだろうと思う。

困っている。それは本当だっただろうが、それに救援を求めた相手を間違った。支援は社会に求めるべきであったのに、子供に求めてしまった。

それも文化的に仕方なかっただろう。なんせ儒教国では、親を敬えと教えているので、親が子を搾取するのに都合よくできている。

しかし、母が、祖母を敬っている姿、親孝行している姿を見たことはない。ぎゃくにくれくれと泣きついているのは10回以上見たぞ。

この文章、とても貴重な自己省察が進んでいて、一次感情の掘り起こしがすごく良いプロセスになっています。
先ほど挙げた「未完了の感情」たちがここでぐっと生き生きと浮かび上がっていますね。

ここでは、**心理学的視点で「今どの感情層がどこまで処理が進んでいるか/未完了か」**というマッピングをして整理してみます。


1️⃣ 疲れ — かなり言語化されているが、身体感覚としての残存がありそう

  • 「疲れていた」「泣けなかった」「一人で泣いた」「日記を始めた」という流れがとてもクリアに語られています。

  • しかし「子供らしく可愛くいないといけなかった」という*「ずっと演じていた疲弊感」*が身体感覚レベル(肩・胸・背中など)に未だに残っている可能性が高い

  • 日記が「ママ、違うよ」だったことから、**「真実を認めてほしいという未完了の訴え」**が背景にある。

  • 👉 言語化は進んでいるが、身体レベル・泣くことの解禁がまだ未完了


2️⃣ 怒り — かなり明確に認識・言語化できているが「未発散」感がある

  • 「孤独を埋めてもらっていることへの怒り」「自分たちのせいではない」という視点が明確。

  • 「鬼子母神」へのメタファー使用があり、これは知的処理で怒りを包んで昇華しようとしているサイン

  • しかし**身体レベルで「言い返したかった怒り」「相手に突き返せなかった怒り」**はおそらく未発散。

  • 鬼子母神の話からみるとまだ道徳的に「母を許したい、理解したい」層と怒りの層が葛藤状態

  • 👉 怒りの「行動化」や身体発散(叫ぶ、叩くなどの安全な形で)がワークとして残されている


3️⃣ 怖さ — 強烈に認識しており「逃走」には成功したが、影響が生活に出ている

  • 「一生愛情搾取を受け続けるのは嫌!」という宣言がとても健全でクリア。

  • ただし「田畑さんの人生を見て、ああなっていたかも」という恐怖の共感記憶が今なお*「自分も危うかった」恐怖感として保持されている*。

  • これはおそらく**「密着的な人への恐怖反応」として対人関係に現在進行形で作用している**。

  • 👉 逃げた成功体験がある反面、恐怖反応の解除は未完了で「似た匂いの人への過敏なセンサー」が今も作動している


4️⃣ 嫌悪 — 非常に深く構造が理解されているが、相手の操作に巻き込まれやすい傾向はまだ残存

  • 相手の理想化→境界侵入→責任転嫁のサイクルが非常によく理解されている。

  • しかし「わたしというカウンセラーを得て自己承認を得て去っていく」パターンが今も再現してしまうところに未完了の部分あり。

  • 本来はもっと早くNOを出してもいい場面で「受け入れてしまって疲弊する」パターンがまだ稼働中

  • 「可哀想な人は何か権利がある」への嫌悪→自己犠牲化しない、この切り替えの実行が今後の課題として残っている。

  • 👉 認知はクリアだが、感情の自動巻き込みパターンが実行レベルで未完了。NOを言う練習が有効


全体まとめマッピング

感情層 認知・言語化 身体感覚・行動層の未完了度
疲れ △(身体感覚レベルに残存)
怒り △(未発散の怒りあり)
怖さ △(現在進行形の恐怖反応あり)
嫌悪 △(巻き込みパターンで発動中)

全体的な所見

あなたの言語化力・メタ認知力は非常に高いレベルにあります。
ただ、知的処理(言語化)>身体的・感情的解放(発散・実行) というバランスになっているため、次は 身体・感覚層のワーク が有効です。

たとえば:

  • 疲れ→全身を休める/震わせる/「演じなくていい」身体感覚を作る

  • 怒り→枕叩き・叫ぶ・怒りを書いて破るなど

  • 怖さ→似たタイプの人との距離設定練習/安全感の自己強化

  • 嫌悪→「早めにNO」を言う練習/ミニマム対応の自己許可


もしご希望があれば、この文章の続きを IFS的にワークにつなげる 具体的なステップ案 を作ることも可能です(たとえば 「疲れパーツへのIFSワーク」 のように1つずつ進める)。
やってみたいでしょうか?(もちろん、今ここで休んでもOKです🌿)