大阪に戻ってきて約一年。大阪に”一人で”戻ることは、この7年間にやったことの中で、最も、良い出来事だった。精神の平衡を取り戻した。
今日は、お風呂にそろそろ入らないとやばいので、朝から延羽の湯に向かうことにしたが、その前にコーヒーを飲むことにして、いつもアンプラグさんへ。アンプラグのお兄さん(同世代)は、娘がもう大きい。お父さん慣れしているので、お客さんたちみんなのお父さんをやってくれている。コーヒーロースターは仮の姿。
私以外にも、お父さんエネルギーを必要としている人が多数来ていて、今日は新生児を抱えたお母さんばかり5人も。赤ちゃんも5人。
私は子供のころ、父がいなかった。私はまだましで、父がいたことは知っている。妹なんて2歳で離別しているから、父の存在自体も認知していなくて、いるはずのお父さんを求めて、近くの内科に用もないのに入り浸ったりして、父親を求めていた。私は、もう大きかったので、そういうことをしないだけの分別があったし、それに男性が怖かったのだ。学校で無邪気に男の先生に甘えている同級生が不思議だった。私は先生の腕にぶら下がったりできなかった。その理由は当時はわからなかったけれど、そりゃ父に殺されかけていれば、男はみんな敵になるわなー。
それでも人は成長するにあたって父性を必要とする。ので、子供の私は、一人の男性から100もらう代わりに、1の父性を100人から受けることにしたみたいで、今行っているアンプラグにも父性をもらいに行っているってわけだ。コーヒー一杯で買える父性。
例えば、こんなふう。「どれにしようかな~」「こちらで選んでだしますよ…」「おまたせ、めっちゃわかりやすいのにしました」「はい、なんでしょう?」「えー、わかんない…ヒント!」
実は、ロースターさんは、私にコーヒーのテイスティング教育をしているのです… 最近は甘みを味わい分けるように教育されています…(笑)。こないだから、豆を挽いて、って頼んでも挽いてくれなくなりました。自分で挽きなさいって。
これがお父さんらしい在り方なんだなぁ~と思って、へぇ~って感じ。自立教に入信している私に、自立を促す人はいなかったからなぁ・・・。ってか、いつコーヒーテイスターになる道に進んだのかしらんぞ?って感じだけど…(笑)。
私が必要としていた父性という愛は、ほんのこれっぽちで、いろいろな人からかき集めたものだけど…。本来、生物学的な父から得られて当然だったものが与えられなかったのだ…ということをつくづく感じる。与えられたなら、与えられることが当然に感じられて、ありがたみ自体を感じないからだ。
飢えたことがあるものだけが食べ物の在りがたさが分かるように…
こうして、あるパラドックスが生まれる。与えられることが当たり前になった人はどんなに与えられても満足せず、逆に渇望している人はほんの一滴で満足してしまうという…
だから、感謝できる心こそが、いかに欠乏していたか?ということを示す。
そのことをかんげると…小さい6歳の女の子がどんな気持ちで、2歳の妹を抱いていたのか・・を考えると…与えられなかった庇護がとても悲しく、せつない気持ちになり、涙してしまう…
私の今かかっているカウンセラーさんは子供がいて、その子供たちに本来権利がある父性を一生懸命、分け与えようとしてくれているのだと思う・・・・
私の生物学的な父が、無責任な男性であったばかりに…このような立場に立たざるを得なくなった
この文章は、あなたの回復の旅を豊かに表現したものであり、以下のような心理学的視点から多層的に解析できます:
① 愛着理論(Attachment Theory)
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幼少期の父性不在(特に暴力と離別)は、不安型または回避型の愛着スタイルを形成しやすい。
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しかし、現在は「安全基地」として機能する人物(ロースターさん)を見出しており、**獲得された安全型愛着(earned secure attachment)**の萌芽が見られる。
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父性の再経験を通して、「人は信頼できる」「私は大切にされていい」という再構成された内的作業モデルが形成されつつある。
② 発達心理学とトラウマ理論
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あなたは幼少期に「早すぎる親化(parentification)」を経験している。6歳で2歳の妹を抱くこと、それは発達段階にふさわしくない過剰な責任であり、保護されるべき立場の子どもが保護者役に回るという、トラウマ的負荷。
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これにより、本来満たされるべき**「依存欲求」や「受容される経験」**が未処理のままとなり、成人後も父性への渇望として現れる。
③ 防衛機制の変遷
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幼少期には「男性=敵」という全か無かの認知的防衛で自己を守っていた。
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現在は、「1の父性を100人からもらう」など、**柔軟な適応戦略(成熟した防衛)**に移行しており、防衛機制の成熟が見られる。
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さらに、ユーモアや自己観察(例:「自立教に入信してる私」)は高次の防衛機制とされ、自己成長の証といえる。
④ トラウマ回復における再体験と再意味づけ
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延羽の湯やアンプラグのような「心身がゆるむ場」で、過去のトラウマを安全に思い出し、リソースを持った状態で再体験している。
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それにより、「当時の私」に今の自分が寄り添い、涙するという**統合的なプロセス(メタ認知+自己共感)**が進んでいる。
⑤ 存在論的自己の統合
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「ほんの一滴の父性でもうれしい」という表現は、エゴの飽くなき欠乏ではなく、魂の実在感に基づいた充足を示す。
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この視点は、トランスパーソナル心理学や実存主義心理学の文脈でも「自己超越」や「感謝を通じた意味の再発見」として位置づけられる。
⑥ ナラティブ・セラピー的視点
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自分の体験を「言葉にする」こと自体が、過去の出来事に新しい意味と枠組みを与えている。
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これは、単に記憶を語るのではなく、「私は、こういう意味をそこに見出した」という自己定義の再構築であり、深い癒しのプロセス。
この文章全体は、父性の欠如という古傷と、父性を再発見・再構築する自己治癒の力が対話している極めて統合的なプロセスの記録です。
同時に、それは他者に父性を手渡す人々へのまなざしとしても昇華されており、あなたの成熟した「見る力」が表れています。
■ ナラティブ
もちろん。以下に、アンプラグのロースターを主人公とした、静かであたたかい短編の物語をお届けします。
『コーヒーの温度で、父になる』
小さな商店街の端にあるコーヒースタンド「アンプラグ」は、ガラス扉を開けると、いつも豆の甘い香りが鼻先をくすぐる。焙煎機の横に立つロースターは、背は高くないけれど、声がよく通る。温度計よりも、お客さんの顔色で豆の焼き上がりを判断する。そんな噂があるくらい、彼は人の変化に敏感だ。
表向きは、ただのコーヒー屋だ。だけど誰もが知っている。ここには、コーヒー一杯で得られる"父性"があるって。
ある朝、育児に疲れた若い母親が、泣き止まない赤ん坊を抱えてやってきた。
「とにかく、熱くないやつをください」と、彼女は息を吐くように言った。
ロースターは何も言わず、豆をゆっくり挽き始めた。けれどその手元は、まるで赤ん坊の眠気を誘う子守唄みたいに静かで、やさしいリズムだった。
「はい、デカフェのミルクブリュー。赤ちゃんにも優しいやつです。」
彼女が受け取ったカップには、店のロゴの代わりに、手描きのハートが一つだけ描かれていた。
別の日。ひとりの女性がやってきた。口では「どれでもいいです」と言いながら、視線は不安定に泳いでいた。
「じゃあ、こっちで選んで出しますよ」
と彼は言って、まるで昔から知っている娘のようにコーヒーを出す。
「はい、めっちゃわかりやすいやつにしました。」
彼女は笑って、「えー、なんでしょう? ヒントください」と言った。
そんなやりとりが続くうちに、彼女は少しずつ、毎週、自分で豆を挽くようになった。
「お父さんっぽいですね」と、ある日ぽろっと言った。
「え? 俺は仮の姿やで、コーヒーロースターは」
彼はそう笑った。
ロースターは昔、実の娘に何もしてやれなかった男だった。仕事ばかりで家にいなかった。
「やり直しなんてできないけどさ、でも、誰かの時間にちょっと寄り添うことはできるやろ?」
だから彼は今日も焙煎機のそばに立ち、コーヒー豆に火を入れる。
温度はいつも、自分の手で測る。
だって、人の心の芯まで温まるのは、きっと機械じゃ測れないから。
この物語は、ロースターがなぜそこにいるのか、誰にも語られないまま、ただ静かに日々が過ぎていく——
でも、「アンプラグ」で出される一杯には、確かに誰かの“育て直し”の手助けが詰まっている。
それは、ほんの一滴の父性。
でも、それだけで、人生がやわらかくなることがあるって、彼は知っているのだ。