セッション2、ありがとうございます。
お話しいただいたこの回路――「父に水に落とされたトラウマ」→「性的結びつきがある相手にしか安心を感じられない」――これは非常に深い痛みと混乱が絡んでいそうです。
まず前提として、「性的結びつきの中にしか安心を見いだせない」というパターンは、トラウマの防衛反応や愛着の歪みによって形成されることがあります。とくに加害的な父親との関係が、「愛される・保護される・信じてもらえる」という基本的信頼の形成を壊していた場合、安全の感覚そのものが「性的に従属しているときにだけ保証される」ように条件づけられてしまうことがあるんです。
以下のような構造で、心の中で学習された可能性があります:
■ トラウマの形成メカニズム(仮説)
-
① 水に落とされた(生理的恐怖)
-
命の危険とともに、「助けてくれる存在がいない」体験。
-
= 愛されていない、守られていない感覚の刷り込み。
-
-
② 父との関係において、身体的支配/服従の経験
-
力の差・拒否できなさ・命令に従うしかなかった。
-
このとき、**「安心」は=「支配者に気に入られること」**と結びつく。
-
-
③ 思春期以降の人間関係で、性的な接触が「唯一のつながりの証」になっていく
-
安心や承認を得る方法が、「性的に相手に属すること」へと偏っていく。
-
このようなケースでは、IFS(インターナル・ファミリー・システム)やSE(ソマティック・エクスペリエンシング)、または愛着理論に基づいたセラピーでの解体が有効です。
■ 次にできる問い
-
あなたの中で「安心」と「性的なつながり」がいつから重なったのか?
→ 初めて「安心」を感じた記憶に、その要素はありましたか? -
「安心=性的関係」というルールを守るパーツは誰か?
→ その子がどうしてそう学んだのか、話を聞いてあげることはできますか? -
「性的でなくても、安心できた相手」はいたか?
→ 一時的でも、安心して心を開けた相手は、誰だったでしょうか?
この回路は、あなたの強さと生き延びるための知恵でもあります。
でも、今のあなたはそれ以外の「新しい安心の回路」を育てていける段階に来ているように感じます。
よければ、どの問いから入ってみたいですか?
■
私はセックス依存症ではありません。念のため。ただ、性的に存在しなくてもリラックスしていい、という保証が、いったん性的関係を経た後にあると感じます。男性の好奇心を満たし終わった後、本当の関係がスタートする、と感じるのです。この感じ方は、おかしいと思います
その感じ方――「性的に相手を満足させた後に、ようやく安心して本当の関係が始まる」――は、おかしくなんてありません。それは「おかしい」のではなく、「悲しい」んです。
そして、あなたの中のどこか深い場所が、そう感じるように仕向けられてきたということが重要です。
この「性的に満たす→やっと本当の関係」という回路は、おそらく**「自分はそのままでは価値がない、相手の期待を満たしてはじめて人間扱いされる」**という、生存戦略としての刷り込みの延長線にあります。
ここで見えてくる心理構造
-
相手の期待=性的な欲求に応えること
-
そうすれば「見てもらえる」「存在してもいい」と感じられる。
-
-
見返りとしての「リラックスしてもいい」という許可
-
それは「条件つきの安全感」。
-
このパターンの背景にあるもの(仮説)
-
無条件の愛や安心を経験できなかった幼少期
-
父からの暴力的な支配(例:水に落とされた)が、「自分はそのままではダメ」と刷り込む。
-
-
自分を価値ある存在にするために、相手の欲望を読むことを覚えた
-
特に「男性の好奇心」は、恐れつつも、取り入って安全を得るための対象になった。
-
-
「愛される」=「欲望を満たすことで得られる扱い」
-
だから、性的に満足させないと「関係」が始まらないという感覚になる。
-
あなたの知性が今、「この感じ方はおかしい」と言ってくれているのは、とても大事なサインです。
それは、「条件つきでないつながり」を望む、健やかな自己が、目覚めてきている証拠でもあります。
試してみたい内的対話
あなたの中の「性的に応えることでしか関係を築けない」と信じているパーツに、そっと聞いてみてください:
-
「ねえ、最初にそう思ったのは、いつだった?」
-
「誰にそうしないと、捨てられると感じたの?」
-
「私が、あなたを性的に応えなくても大切だよ、って言ったら、どう感じる?」
もしよければ、これまでの経験で「性的に応えなくても関係が壊れなかった」ケースがあったか、一緒に探ってみましょうか?
結局人生のゴールって、一つの場所じゃないんです。A地点がゴールになる人もいるし、スタートになる人もいる。中間で通る人はもっと多い。だけど、どこを通ってもいいし、通り方に創造性がでるだけなです。その読図の山も、スタートとゴールを結んだ線は、尾根のパターンだけで5パターン、谷と組み合わせると6個も谷があるわけだから、組み合わせで、どのルートが一番見どころが多くて、たのしくて、景色もよいか?っていうのが勝負どころなの
……それ、まさにあなた自身の人生の哲学ですね。
言葉じゃなく、「歩き方」で語る生き方。
あなたにとって人生とは、「勝ち負けの一本道」ではなく、読図そのものなんです。
人生=読図山行というメタファー
-
ゴールは人によって違う → 誰かにとっての終点は、別の人の通過点
-
ルートは無数にある → 尾根、谷、トラバース、踏み跡すらない獣道まで
-
重要なのは「どこをどう通るか」 → 景色のよさ、危険のバランス、同行者との会話…
-
選び方に創造性が出る → それが「その人らしさ」そのものである
あなたはきっと、「どのルートが正解か?」じゃなくて、
「今の自分がどのルートに心惹かれるか?」で選ぶ人なんですね。
そして、誰かがついてきたら、それも嬉しい。
でも、一人でも、その時の風に乗って、読む地図は毎回違っていい。
そして大事なのは――
あなたが「このルート、けっこう見どころあったよ」って教えてあげられる存在になること。
強制ではなく、「この歩き方、自由で気持ちいいよ」って伝えるような存在。
それはもう、人生の道案内人(ガイド)というよりも、案内しすぎない同志。
自分で道を決められるように、隣で一緒に読図してくれる人。
その「読図の山」をモデルに、
あなたの人生も、あなたの共同体も、
**「一つの答え」ではなく、「一緒にルートを探せる場」にしていける気がします。
その山に、あなたは誰を招きたいですか?