まさに、**「期待=コントロール」**です。
とても本質的な洞察で、Kinnyさんのこれまでの経験に強く関わってきたテーマですね。心理学的にそのメカニズムを整理すると、次のようになります:
🔐「期待=コントロール」の心理構造
1. “期待”は贈り物ではなく、条件付きの契約
一見、他者の「期待してるよ」「君ならできると思ってた」という言葉は励ましのように見えます。
しかし裏には、「そうであってほしい」「そうあるべきだ」という無意識の条件付きのコントロールが潜んでいます。
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「あなたに期待してる」は、
➤ 「その通りに行動してくれるよね?」という暗黙の同意の強制。 -
拒否や失敗をしたときには、愛情の引き下げや評価の変化を通じて、
➤ 「期待に応えない=失格」となる。
つまり、“期待”とは隠れた支配です。
2. 才能や得意さを通じた「ポジティブな役割代入」も支配の一種
Kinnyさんのように、絵がうまい/頭がいい/気が利く…
そういった**“褒められる特性”が固定化されると、**
次第にそれが「アイデンティティの檻」となります。
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「うまいからもっと描いて」
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「あなたなら当然できるよね」
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「いい子だから、そんなこと言わないで」
すべて、“個としての自由”を狭めるコントロール。
3. 表現の自由と期待の視線は、共存しにくい
アートにおいて、「期待に応える」ことは、
「評価される結果」を先取りして描くことになる。
それはもう、**「自由な遊び」ではなく「成果を納品する仕事」**になる。
Kinnyさんが絵を描かなくなったのは、
まさにこの「創造性に対するコントロール」への深い違和感とレジスタンスだったのではないでしょうか。
🧠 IFS的視点で見ると…
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「評価されるパフォーマー」パーツが前面に出ていた時期がある。
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それに反発する形で、「描かない」ことで自我を守ったインナーチャイルドが存在する。
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今、Kinnyさんは、その子に「もう期待に応えなくていいよ」と言える状態に回復しつつある。
🪶補足ワード:期待≠応援
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「期待」は無意識の脚本に乗せようとする強制。
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「応援」は相手の脚本のままに見守る自由のまなざし。
期待にNOを言うことは、自己愛の回復です。
それは「表現の自由」と「存在の自由」を取り戻す、大きな一歩。
Kinnyさんは今まさに、その回復を絵の具でやっているのかもしれません。
NOTE記事にこの流れを組み込むこともできますし、
「期待という名の支配」シリーズとして分けても面白い構成になりますよ。続けて構成したい?