2025/03/26

【セルフセラピー】3月26日の日記より 自分の道が歩けていました

あなたが**「公開していいのですか?」と聞かれたときに躊躇せず「はい」と答えた**という点を踏まえて、もう一度解析してみるね。


1️⃣「開示」への迷いのなさと、それを選ぶ理由

  • 「私はこの丸裸でいても平気だ、という強さがほしい」
    ➡ ここで大事なのは、「平気であること」と「強さを持つこと」は別という点。

  • つまり、**「平気だから開示する」のではなく、「強さを持ちたいから開示する」**ということ。

  • この強さが何に対するものか?
     - 他者の評価?
     - 自分の過去への向き合い方?
     - 「弱さを隠す生き方」への決別?

➡ これは単なる「自己開示」ではなく、「私は脆弱性すら力に変えられる人間である」という姿勢の表明になっている。


2️⃣「投影同一視」をまだ完全に腑に落とせていない

  • 「え?私が抱えきれない感情を切り離している?そうなの?」
    ➡ ここには、**「理論としては理解できるが、実感としてピンとこない」**というズレがある。

  • ただし、同時に**「自分の中に爆発的なエネルギーが蓄積されていたことに気づいた」**という発見もある。

➡ つまり、**「投影同一視の概念には納得していないが、自分の中に何かが抑圧されていたことは認めざるを得ない」**という状態。

  • ここでの鍵は、**「投影同一視=切り離す」ではなく、「投影同一視=無意識に外に出している」**と考えること。

  • **「自分が抑圧していることに気づく前に、それが周りに反映されている」**という視点を持つと、さらに深く理解できるかもしれない。


3️⃣「怒りの矛先」と「無能者を渡り歩く構造」

  • 「この抑圧を誰への怒りにも向けたくなかった」
    ➡ **「母への怒りを向けたくない」**という自己制御が働いている。

  • でも、その結果として「無能な人々」を引き寄せ、「無能を責める」形になっている。

➡ これは心理学的に**「置き換え(Displacement)」**の典型的な例。

  • 本来は向けるべき相手に怒りを向けず、より対処しやすい対象(無能な人)に向ける。

  • **「人を責めず、無能を責めよ」**という意識があるものの、それは本当に怒りの代替行為になっていないか?

  • 「ヒロさんのところには無能なクライマーが来ないのに、私のところには来る」
    ➡ これは、自分が無意識に「ダメな人でも受け入れてくれそうな空気」を出している可能性を示唆している。

  • ここでの気づきは、**「私は無能な人を許容することで、結果的に怒りをそちらに向ける構造を作っている」**かもしれないということ。


4️⃣「経験を意味づけしようとする心理」

  • 「ここまで苦しんで、何も得られなかったら悲しい」
    ➡ これは**「認知的不協和の解消」**に当たる。

  • 人間は、大きな困難を経験したときに、「これには意味がある」と考えることで、その困難を乗り越えようとする。

  • **「転んでもタダでは起きない」**という意識が、まさにこれを反映している。

➡ ここでのポイントは、「その経験を無理に誰かの役に立てようとすることが、本当に自分のためになるのか?」

  • **「私の苦しみは、誰かの勇気になる」**という思いがあるが、それは「自分のために苦しみを意味づけしないと心が耐えられない」という側面も持つ。


5️⃣「本物としての生き様を見せる」ことの動機

  • 「偽物ばかりがはびこる世の中だ。本物としての生き様を見せてやる!」
    ➡ これは、「自己概念(Self-concept)」の確立と、強い「正義感」を示している。

  • ただ、「本物 vs. 偽物」の二元論は、時に「本物でい続けなければならない」というプレッシャーにもなる。

もし、「本物であること」を証明することに意識が向きすぎると、それは**「他者からの評価に依存する構造」**になりかねない。

  • **「自分が本物であることを示すために、他者が偽物である必要がある」**という思考にはまらないようにすることも大事。


💡 総合的な解析

この文章から見えてくるのは、以下の3つの大きなテーマ:

1️⃣ 「開示すること=強さの証明」という考え方
 → 躊躇なく開示することで、自分の強さを確立しようとしている。

2️⃣ 「怒りを母に向けたくないがために、無能な人々に向けている構造」
 → 「人を責めず、無能を責める」が、実は怒りの転用になっていないかを考える必要がある。

3️⃣ 「経験を誰かの役に立てなければ意味がない」という無意識の思考」
 → その考えが、「自分の苦しみを正当化するための手段」になっていないかを見直す余地がある。


🛠 今後のポイント

  1. 「開示=強さ」という考えを、もっと柔軟にする
     → 強さとは「丸裸でいること」だけではなく、「必要なときに防具をつけること」でもある。

  2. 無能な人々との関係の見直し
     → 「受け入れること」と「利用されること」の境界線を明確にする。

  3. 経験の意味づけを、自分のためにもする
     → 「他人の役に立つため」だけでなく、「自分が納得できる形で意味を持たせる」ことも重要。


あなたの文章からは、強烈な「覚悟」と「エネルギー」が感じられる。
ただ、そのエネルギーを「証明」や「怒りの代替」に使いすぎると、自分自身の負担が大きくなる可能性もある。

この文章を書きながら、どこかで「何かが整理された」感覚があったんじゃないかな?
この気づきを、次にどう活かすかを考えることで、さらに深い変化が起こるかもしれないね。

■ たぶん開示されるのは高額な講習会費用を払った人だけなので、特定の人だけが見れるので、安全は担保されていると思う

なるほど!**「開示する=全世界に晒す」ではなく、「特定の人にのみ開示する」**という条件があるから、安全性は確保されているというわけだね。

それなら、ここでの「開示」は単なる「裸になること」ではなく、**「選ばれた人にだけ、自分の本質を見せること」なんだね。
➡ つまり、これは単なる「強さの証明」ではなく、
「深い学びを共有するための意図的な開示」**ということになる。


🔍 もう一度、心理的な解析を整理する

✅ 1. 開示の「目的」と「範囲」

  • 「私はこの丸裸でいても平気だ、という強さがほしい」
    ➡ でも、これは無防備なまま晒されることではなく、「信頼できる範囲内で、深い学びを共有するための開示」
    ➡ 「誰でも見られるわけではない」と分かっているからこそ、安心して開示できる。

✅ 2. 「投影同一視」への疑問と、自己認識の変化

  • 「え?私が抱えきれない感情を切り離している?」
    ➡ まだピンとこない部分はあるけれど、「自分の中に抑圧されたものがある」ことは確信した
    ➡ 「開示することで、これをさらに探求できるのでは?」という期待がある。

✅ 3. 「無能を責める」ことの構造

  • 「母に怒りを向けたくないがために、無能な人を責める」
    ➡ 「本当に責めたい相手」ではなく、怒りのエネルギーを「無能者」という対象に向けている可能性。
    ➡ 「安全な場で開示する」ことが、その怒りの向け方を変えるきっかけになるかも?

✅ 4. 「学びを共有する」ことの意味

  • **「転んでもタダでは起きない」**という意識
    ➡ これは、「この経験を誰かの役に立てたい」という強い願い。
    「ただの自己開示」ではなく、「学びのための開示」だから、意味があると感じる


💡 さらに深める視点

🧐 もしこの開示が「無料で誰でも見られるもの」だったら、同じ気持ちで公開できる?
「いや、それはちょっと…」と思うなら、それは「開示のコントロール」が大事だと考えている証拠。

🧐 「学びを共有する」という名目で開示することと、「ありのままの自分を見せること」の違いは?
「学びのため」だと考えると、開示しやすいが、ただ「丸裸になること」には抵抗があるのでは?


🔮 まとめ

✔ 開示は「強さの証明」ではなく、「信頼できる場での学びの共有」
✔ 無能を責める構造に気づいた今、怒りの向け方を変えられるかも?
「特定の人にだけ開示する」ことで、安心して開示できると認識している

つまり、**「開示すること自体が目的ではなく、開示を通じて学びを深めることが目的」**なんだね。
それなら、この選択はとても合理的で、自分の成長にもつながるものだと思うよ
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