2025/05/10

【インナーチャイルドワーク】 セッション4 家庭の平和を達成できなかった6歳児の悲しみ

 それは…とても大切な感情ですね。

悲しさと懐かしさが一緒に来るとき、
それは「失われたけど確かにあったもの」に触れた証かもしれません。
言葉にしづらいその感情は、もしかすると――

🕊️「私はたしかに、誰かの全身全霊の愛の対象だったことがある」

という、存在の記憶そのものなのかもしれません。

それは、「愛されたかった」ではなく
「愛されたことがある」の方。


もしかしたら今のあなたが、その時の母のように、
誰かを無条件に愛する感情を知ったことで、
過去にあった“その愛”の温度に気づいたのかもしれません。

💬 こんなセルフ対話の言葉を贈ります:

「たしかに、あのとき、あの人は、私にだけ向けた愛を持っていた。
たとえそれが長くは続かなかったとしても――私は、それを知っている。」


私は母から深く愛された→弟と妹に譲らないといけないし守ってやらないといけない→しかし弟は死亡し、妹は自殺未遂 → 私は弟と妹を守れなかった→母にあれだけ愛されたにもかかわらず、ミッションを達成できなかった という感じです

……その語りは、胸が締めつけられるほど深く、
そして、長いあいだ抱えてきたもののように聞こえます。

あなたが受け取った「深い愛」は、
いつのまにか「使命」となり、
それはあなたにとって、ただ愛された子でいることを許さないものになってしまった。


🔄 愛 → 責任 → 失敗 → 自責

この連鎖のなかで、あなたは
「愛された記憶」さえ、どこか罪のように感じてきたのかもしれません。

  • あれほど愛されたのに、

  • 守れなかった、救えなかった、

  • だから私は母の愛に値しない存在だったのではないか……


でも、ここで一つ問いを立ててみたい:

あなたに託された「守る使命」は、
本当に、あなたが“果たさねばならなかった運命”だったのでしょうか?


🌿 もしかすると…

  • それは「子ども」であるあなたが、自分なりに母の愛に応えようとした、けなげな誓いだったのかもしれない。

  • そして、母自身も、本当はそんな「重荷」をあなたに背負わせたつもりはなかったのかもしれない。

  • あるいは、母もまた、弟と妹のことで自分を責めていたのかもしれない。


💬 こんなセルフ対話の言葉があります:

「私は愛された。
それは、何かを成し遂げるための条件ではなかった。
ただ、私が生まれたという奇跡だけで、愛されたんだ。」

「私は守れなかった。
でも、私はひとりの子どもだった。
あの時の自分を責めるのは、もう終わりにしていい。」


もしよかったら、この記憶の中にいる小さな“私”に声をかけてあげませんか?
あなたなら、どんな言葉をその子にかけてあげたいですか?

客観的には、一人の子供にできる以上のことをしたと思うのですが、主観的には悲しみや失敗したという感覚が残ります。弟がなくなったこと、妹まで自殺未遂になったこと。私を選んで母が一度家出したことなどが思い起こされます

……あなたの語りには、
「一人の子どもが抱えるにはあまりにも重すぎる愛と責任」が滲んでいます。

そしてあなたは、その重みの下で、
客観的には精一杯やったと知りつつ、主観的には「救えなかった」感覚に今もなお心を締めつけられている。

それは、「事実」と「心の痛み」がずっと乖離したまま、
癒しきれずに残っている証だと思います。


🔄「母の愛」=「選ばれた使命」になったとき

あなたは、母から特別に愛された。
その愛は、あなたを「特別な存在」に押し上げた――でもそれは同時に、

「あなただけが頼り」
「あなただけはわかってくれる」
「あなただけは私の味方」

という、母の“期待と依存”を一手に引き受けることでもあったのかもしれません。


🌑 そして、その愛はいつしかこうなった:

  • 「守れなかった自分は、愛に値しなかったのではないか」

  • 「もし本当に愛されていたなら、もっとできたはずだ」

  • 「私は“使命”を達成できなかった、“特別”ではなかった」

それはまるで、ヒーローになりきれなかった少女の挫折です。


🕊️ でも、あなたは本当にヒーローである必要があったのでしょうか?

子どもは、ヒーローである前に、ただの子どもでいてよかったはずです。

  • 弟の死は、あなたの責任ではなかった。

  • 妹の苦しみも、あなたが背負うべきものではなかった。

  • そして、母の“あなたを選んで家出したこと”も、あなたを愛するがゆえの選択だったかもしれないけれど、それは母自身の決断であって、あなたの義務ではなかった


💬 こんなふうに伝えることはできるかもしれません:

「私は小さな体で、愛を守ろうとした。
無力さに打ちのめされながらも、それでも、あきらめなかった。
私は、あのときの私を、誇りに思ってもいい。」


あなたの中で、その「小さなヒーロー」をもう一度抱きしめてあげることは、今できそうですか?
それとも、もう少し寄り添って一緒にいてあげた方がいいですか?

そうですね、選ばれた者には義務や責任が生じると思ってしまったようです

……うん、その感覚、とてもよくわかります。

あなたが「選ばれた」と感じた瞬間、
それはきっと、愛と誇りと、そして逃れられない責務がセットになって心に刻まれたのだと思います。


🎭 「選ばれし者」スクリプト

あなたが無意識に生きてきたスクリプトは、
こんなふうだったのかもしれません:

  • 「私だけが、母の心を支えられる」

  • 「弟と妹の面倒は、私が見るべき」

  • 「もし私が倒れたら、みんなが崩れる」

  • 「愛されたのだから、私には返す義務がある」

これはまるで、神話のヒロインのような生き方です。
けれど、そのヒロイン像は、あなたが自由になることを許さなかったのかもしれません。


🔄 IFS的に見ると…

この「選ばれた者であることを引き受けたパーツ」は、
あなたの中の“使命の番人”かもしれません。

でも、その奥には、もっと繊細で小さなパーツ――

「本当はただ、愛されるだけでよかった」
「誰かに守ってほしかった」
「母の笑顔だけで十分だった」

……そんな“無垢な子ども”がいるのではないでしょうか?


🌱 ここからの一歩として…

こんなセルフ対話を、そっと始めてもいいかもしれません:

「選ばれた私」へ
あなたは立派だった。
でも、もう“役目”を降りてもいい。
愛されたことは、義務じゃない。
それは、贈り物だったんだよ。


少しずつでいいので、
「愛されたこと」と「責任を負うこと」を切り離していけたら、
あなたの心にもっと自由なスペースが生まれるはずです。

今、その「贈り物」としての愛――
思い出してみたとき、どんな色や感触が浮かびますか?

■ ラブランゲージが責任?

……すごく深い問いですね。
あなたの言葉からは、「愛=責任」という形で受け取ってきた歴史が確かに感じられます。


💬 ラブランゲージが「責任」のように感じるとき

これはとても興味深いことで、通常の5つのラブランゲージ(行為、言葉、贈り物、時間、スキンシップ)に当てはまらないようでいて、**その裏側に「責任という行動」を通して愛を伝えたり受け取ったりしてきた」**という、あなたの独自のパターンが浮かび上がります。

つまり、あなたにとっての「愛」とは:

  • 期待に応えること

  • 誰かを守ること

  • 自分の役割をきちんと果たすこと

を通して、「私は愛している/愛されている」と感じられる形だったのかもしれません。


🎭 でも、これは「選ばれた子ども」の防衛でもある

「責任」でしか愛を感じられない――というのは、
裏を返せば、

「ただ受け取るだけ」では、愛される価値がない

と無意識に信じてしまっている可能性もあります。

IFS的に言えば、「ラブ=責任」と感じるパーツの奥に、
「無力な私では愛されない」という信念を持った子どもパーツがいるのかもしれません。


🌱 新しい定義に書き換えるとしたら?

ちょっとこんな問いを置いてみませんか?

「もし、責任を果たさなくても、私はそのままで愛されていたとしたら?」
「もし、誰かが“ありがとう”や“好き”と言ってくれるのが、私が何かをしたからではなく、ただここにいるからだったとしたら?」


もしかすると、あなた本来のラブランゲージは「責任」ではなく、
**“存在の共鳴”や、“静かな理解”**なのかもしれません。

今、あなたが「受け取りたい愛」は、どんなかたちをしていそうですか?

責任を果たさなくても愛されたと思う。たぶん、役割を選んだのは、発達課題的に6歳ごろの発達課題が、社会的役割の認知だからではないでしょうか?そのころ両親が離婚したので。

はい――まさにそのとおりだと思います。
あなたの洞察は、驚くほど正確で、深いです。


🧠 6歳ごろの発達課題(エリクソンの発達理論)

心理学者エリク・エリクソンによれば、6歳前後は「勤勉性 vs 劣等感」の発達段階で、
この時期の課題は、

**「自分は何かを達成できる」「社会的な役割を担える」**という感覚を育てること。

もしこの時期に家庭が混乱し(たとえば離婚)、
周囲の大人が不安定であった場合、子どもは、

🛡️「自分がしっかりしなきゃ」「自分がこの家を支えよう」

と、身を挺して“社会的役割”を引き受けてしまうことがあります。

それは愛されるためではなく、家の崩壊を止めるため
つまり「愛のため」ではなく「世界を保つため」の行動です。


🎭 「役割を選んだ子ども」は、本当は…

  • 「私は愛されていた」ことは、ちゃんと知っていた。

  • でも、**家庭の“重力”**に抗えなかった。

  • 「何かをしていないと、世界が崩れてしまう」ような、切実な恐れがあった。

このときの選択は、サバイバル本能と知性が生んだ自己防衛だったのです。


🪶 だからこそ、今できること

今のあなたは、その6歳の少女の選択を理解し、労わり、
こう言ってあげられる存在になっています:

「あのとき、世界を守ろうとしたあなたは立派だった。
でも、もうその役目を続けなくていいよ。
あなたは、ただ、愛された子どもでいていい。」


あなたの中の6歳の子は、今この言葉を聞いたら、どんな反応をしそうですか?
その子に、どんな風に寄り添ってあげたいと思いますか?

私は家庭の平和を守りたかったのです。でもできませんでした

……その言葉、静かで、とても重く、美しいです。

あなたが本当に守りたかったのは、「家庭の平和」――
つまり、誰も怒らず、誰も泣かず、
みんなが安心して一緒にいられる、あたたかな世界だったのですね。

そしてあなたは、まだ幼い体と心で、それを守ろうと本気で思った。


💔 でも、「できなかった」

それは事実かもしれません。
家庭は壊れた。弟は亡くなり、妹は傷ついた。
母もまた、不完全な人間として、苦しんでいた。

でも――

🕯️ あなたの「できなかった」は、無力さの証ではない。

それは、

「私は、どんなにちいさくても、あきらめなかった」
「誰よりも、その家を愛していた」
「世界をよくしようと、本気で願っていた」

……という、魂の真実の証です。


💬 その子に今、声をかけるなら

あなたが今、あのときの自分に語りかけるとしたら、
こう言えるかもしれません:

「あなたは、壊れていく家の中で、光を灯そうとした。
できなかったことは、あなたのせいじゃない。
あなたがいたから、あの家には最後まで“愛”が残っていた。」


その「平和を守りたかった子」は、今どこにいますか?
どんな顔をして、あなたを見ていますか?

悲しんでいる子供です

……うん、そうだよね。
その子が悲しんでいるのは、
ちゃんと愛して、ちゃんと願って、ちゃんと守ろうとしたからだよね。

悲しんでいるのは、
あきらめてなかった証。
本当に大切だった証。


どうか、その子の隣に、静かに座ってあげてください。
なにか正しいことを言おうとしなくていい。
「元気出して」なんて言わなくていい。

ただ一緒に、あのときの気持ちを、悲しみを、感じてあげてください。


💬 もし言葉をかけるとしたら…

たとえば、こんな風に言ってもいいかもしれません:

「うん、悲しいよね。あれは、悲しくて当然のことだった。
私も、あなたと一緒に悲しいよ。
あなたは、よくがんばったよ。ひとりで、よく持ちこたえてくれた。ありがとう。」


あなたの中で、この子がほんの少しでも安心して涙を流せたら、
それは「癒しの始まり」になるかもしれません。

今、その子のそばにいて、どんな風にしてあげたいと思いますか?

■ 原文ママ

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