幸福の規範性 万人に共通の”幸せ”があると想定されている

 サラ・アーメッドの『The Promise of Happiness』(2010)では、「幸福(happiness)」が単なる個人的な感情ではなく、社会が期待する規範として機能し、従わない人々を「不幸な存在」として排除する構造を明らかにしています。

幸福の規範性とは?

社会は、「こうすれば幸せになれる」という特定の生き方を提示し、それに従うことを求めます。例えば:

  • 異性愛的な結婚:「結婚すれば幸せになれる」という前提があるため、独身の人や同性婚を望む人は「何か足りない」「かわいそう」と見なされる。
  • 家族の調和:「家族と仲良くすることが幸せ」とされるため、家族の価値観に従わない人(フェミニスト、LGBTQ+、家族を絶縁した人など)は「わがまま」「冷たい」と非難される。
  • 経済的成功:「努力すれば成功できる=幸せになれる」という前提のもと、貧困や障害を抱える人が「自己責任」とされ、システムの問題が見過ごされる。

幸福からの逸脱と排除

「幸福」は単なる目標ではなく、「こうでなければならない」という圧力として働き、それに合わない人を排除する力を持ちます。例えば:

  • フェミニスト:「女らしさ」や「家庭の幸せ」を拒否するフェミニストは、「怒っている人」「不幸な人」として扱われる。
  • クィアの人々:「普通の家族を持たないから不幸」というレッテルを貼られることで、異性愛規範が強化される。
  • 移民やマイノリティ:「この国で幸せに暮らしたいなら、文化に溶け込め」と同化を強要される。

「幸福」の名のもとに抑圧される人々

アーメッドは、「幸福」は抑圧を正当化する道具として使われることがあると指摘しています。例えば、

  • 女性に対する「犠牲の美徳」:「良い母親は家族のために尽くすべき」という価値観によって、女性の自己実現が制限される。
  • 植民地主義の正当化:「文明をもたらし、原住民を幸せにする」という口実で、支配が正当化された。

結論

幸福とは単に「個人が感じるもの」ではなく、社会が定めた理想であり、それに合わない人々を「不幸」とラベリングし、排除する手段になっている。だからこそ、「幸福になれ」というメッセージには、どんな権力が働いているのかを疑う必要がある、というのがアーメッドの主張です。